大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成8年(合わ)391号 判決 1998年4月17日

主文

被告人を懲役三年に処する。

未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入する。

押収してあるなわとび用ひも一本(平成九年押第二二四号の1)及び金属バット一本(同押号の2)を没収する。

理由

(認定事実)

第一  犯行に至る経緯

一  1 被告人は、昭和四五年三月、東京大学文学部を卒業し、東京都内の出版会社に編集部員として勤務していたが、平成四年一二月末に退職した。平成五年四月から一年間、専門学校で福祉について学んだ後、平成六年四月から、東京都内の精神病院でアルコール中毒患者のケースワーカーとして働いたが、平成七年三月、同病院を退職した。そして、同年四月からは、東京都文京区内にある日本木材学会の事務局で会員のデータを作成するなどの仕事に携わっていた。

2 被告人は、昭和四五年一二月、東京大学農学部図書館に勤務していたAと結婚し、昭和五一年一一月三〇日に長女Bが出生した。

被告人は、昭和五四年に東京都文京区湯島<番地略>所在のマンション「××」の二〇二号室を購入して家族と共に居住し、昭和五七年一月一日には長男Cが出生した。

被告人夫婦は共に職を持っていたため、子供らはいずれも保育園に通い、小学校三年生のころまではいわゆる学童保育に通っていた。そうしたこともあって、被告人は、休日などにはよく家族で旅行や外出をするなど子供らと一緒に過ごすように心掛けていた。

二  1 長男Cは、幼少時から過敏で、風の音におびえたり、初めての出来事に強い不安感を示したりするなどした。小学校入学の際、自分の名札が間違って書かれていたことから学校に行きたくないと言い出し、しばらくの間、姉のBや、被告人に引っ張られて登校した。その一方で、几帳面なところがあり、熱があっても無理をして登校し、結局、小学校の六年間は全く欠席することがなかった。

2 Cは、平成六年四月から地元の区立中学校に通うようになったが、学科の成績は芳しくなく、また、授業中の態度が悪いと言って先生に注意されることも少なくなかった。Cは、同年六月一五日ころ、第一学年担当の数名の先生から、これまでの態度について反省を求められて帰宅し、母親のAに対し、飛び降り自殺ができるような高いビルはないかなどと訴えたこともあった。友人と一緒に卓球部に所属していたが、練習に出ず、バスケット部の先生に誘われて転部し、その後、部活には参加するものの、学校には余り行かなくなった。

Cは、中学校二年生のころには高校進学はしないと言い出し、また、ロックミュージックなどが好きで、そのころからギター教室に通うようになり、将来音楽の方面に進むことを考えるようになっていた。

三  1 Cは、中学入学後、母親のAが朝起こすと、うるさいとか、お前の起こし方が悪いとか怒鳴るようになり、平成六年一一月、朝起こされたとき、Aの頭を殴るなどして注意を受けたため、台所にあった薬びんをAに投げ付けた。これ以後、Cは、Aに暴力を振るうようになった。

最初は、母親のAが朝Cを起こしたときにときどき暴力を振るうだけであったが、そのうちに、うたた寝をしていて自分の見たいテレビ番組を見過ごした時など、おもしろくないことがあると暴力を振るうようになっていった。

2 被告人は、暴力の原因は、Cが学校の勉強の面でつまずき、それを乗り越えられないためではないかなどと考え、その面で援助をしようと思った。そこで、Cと向き合う時間を作るため、余裕のある職場に転職することを考え、平成七年一月ころ、前記の日本木材学会事務局の面接を受けた。

一方、母親のAの意見は、Cが夜遅くまで起きていて朝起きられないのが暴力の原因ではないかというものであったことから、被告人夫婦は早寝早起きの生活をすることを心掛けた。

Cは、当初は専ら母親のAに暴力を振るっていたが、同月ころ、被告人が、Cと一緒に見に行く予定にしていたプロレスのチケットを購入してきた際、Cと被告人の席が離れていたことに腹を立てて被告人にも暴力を加えた。

3 このことも契機となって、被告人は、家庭内暴力等を扱った書籍を読むなどし、親としてCの荒れた心を受け入れ、援助することが大切であると考え、Cの暴力に抵抗しないようにしようと思った。

その後、平成七年二月ころ、Cは、ファンであるロックグループ歌手と同じ帽子を被告人と一緒に買いに行こうとした際にも機嫌を悪くし、帰宅後、抵抗しないでいる被告人に対し、土下座までさせた上殴る蹴るなどの暴力を加えた。

こうしてCの暴力は次第にエスカレートしていった。もっとも、姉のBとは仲がよく、Bには特に暴力を振るうようなことはなかった。

4 平成七年二月ころ、被告人夫婦は、家庭内暴力の専門病院である北の丸クリニックへ相談に行き、医師から、「子供の要求に応えるように。拒否をしてはいけない。暴力がひどいときは逃げるように。」という助言を受け、ほっとした反面、それでよくなるのかという不安も残ったが、その助言に従ってCに逆らわないでいた。そして、処方された薬をCに飲ませていたが、暴力を振るわなくなる一方、活力も落ちる様子であったことから、そのうち飲ませるのをやめてしまった。

5 母親のAは、平成七年六月ころ、Cに前歯を折られたり、同年七月ころ、Cからいすを振り上げられたりなどしたこともあって、恐怖心を抱いて自宅を出、数日間精神病院に入院した後、三か月間くらい自宅に戻らなかった。

母親のAが家を出た後もCの暴力はやまず、被告人は、針金のハンガーで殴られたり、いろいろな食べ物を買いに行かされたりするなどし、死にたい気分となり、北の丸クリニックで抗うつ剤の処方を受けるなどしていた。

6 平成七年九月ころからは、Cは、学校に行かなくなり、多くのテレビ番組をビデオ録画したり、バスケットの練習に付き合ったりすることなどまで被告人に要求するようになり、被告人は、Cから求められるままこれに従っていた。

しかし、被告人は、そのようなことが情けなくなり、北の丸クリニックの医師に相談したところ、そういう対応も一つの技術と考えて頑張るようにという助言を受け、心底納得し、これまでどおりCの要求を受け入れていった。

そして、同月ころ、被告人は、Cから、買ってきた食べ物が気に入らないと言って、足蹴にされ、鼻の骨を折られるようなことも起こった。

7 平成七年一〇月ころから、母親のAが徐々に自宅に戻り、冬ころからまた一緒に生活するようになったが、しばらくの間は、Cは、Aに暴力を振るわなかった。しかし、その後、Cは、自分が学校に行っていないのをAが知らない振りをしたなどと言って、再びAに暴力を振るうようになった。そして、平成八年一月ころ、Aに対し、スパゲティ店で無理やり三人前くらいを食べさせた上、帰宅した後、食べ方が汚いなどと言って暴力を振るったりした。

8 平成八年春ころ、被告人夫婦は、不登校の問題の相談機関である東京シューレの医師に相談し、その勧めで同年六月から八月にかけ、同機関が催している登校拒否児童の親の集まりに参加した。

被告人夫婦は、医師から、「子供は自責の念を持っているので学校に行かないことを責めてはいけない。」、「親より子供はもっとつらい。」などと、子供の立場に立って子供を受け入れ、子供の気持ちを理解することが大切であるという助言を受けた。

9 平成八年六月ころ、Cの部屋に出てきたむかでを、被告人が殺し損なって見失ったことから、Cは、被告人を足蹴にし、母親のAの頭などをテレビのリモコンで殴るなどした。そのため、Aは、再び自宅を出て、既に一人暮らしをしていた長女のBと暮らし始めた。

こうして、被告人とCとの二人の生活が始まった。

なお、Cは、機嫌がよいときには母親のAの職場に電話をかけ、その昼休みに家に呼んで一緒にテレビを見たりなどしており、以後、Aに暴力を振るうことはなかった。

10 これ以後、Cの被告人に対する暴力等は日常的になり、その程度も激しいものとなっていったが、平成八年七月ころ、突然テレビの映像が写らなくなって番組のビデオ録画が不可能になったことから、Cが被告人をプラスチック製のバットのグリップエンドで激しく殴るというようなことも起こった。

そのころ、被告人は、自宅にあった金属バットでCから殴られるのではないかと恐れ、これを自宅近くの東京大学構内に捨てた。

11 平成八年八月ころ、被告人は、長女のBから勧められ妻のAとBの三人で梅ケ丘病院へ見学に行ったが、同病院は閉鎖病棟であり、Cを入院させるのはかわいそうだと感じたことや、退院した際そのような閉鎖病棟に入院させたとして仕返しされるのが怖いという気持ちを抱いたことから、結局Cを入院させるには至らなかった。

12 平成八年八月一八日、Cの希望により家族全員で旅行等をし、その際はCの機嫌もよく、暴力を振るうようなことはなかったが、旅行から帰ると再びCの暴力が始まり、同年九月ころにかけては、被告人は、しばしばCに洋服などを買いに行かされたりしていた。

13 被告人は、平成八年一〇月ころからは、妻のAと共に、佼成会病院のカウンセリングに通い、同病院の医師から、「子供の暴力は、親が言葉、態度、権力によって挑発したことに対してそれを払いのけようとする行為である。親が挑発しなければ、子供は暴力を振るわなくなる。」などという助言を受けた。

四  1 平成八年九月ころ、被告人は、いつか自分か妻のAがCに殺されるかもしれないとか、自分がCを殺すかもしれないとか思い悩むようになり、もしCを殺害する場合には苦しませずひと思いに死なせるため金属バットで殴り殺そうと考え、同月上旬ころ、職場近くの店で金属バットを一本購入し、職場の本棚裏側に立て掛けておいた。また、そのころ、金属バットで殴るとき手が滑るのを防ぐために軍手一双を購入した。

さらに、確実にCを殺害するために自宅にあったなわとび用ひもでCの頚部を絞めることも考え、これを軍手と一緒に被告人が自室に使用していた六畳和室の整理ダンス内に入れた。

被告人は、Cを殺害するかもしれないと思う反面、そのようなことはしたくない、明日になればCがよくなっているかもしれないと思い悩み、迷っていた。

2 被告人は、前記のとおり、佼成会病院の医師から助言されていたが、Cの要求がエスカレートし、暴力も日常化してより追い詰められた気持ちになって、平成八年一〇月下旬ころ、Cが自分を殺すか、自分がCを殺すかの両方の危険性がより高くなることを承知の上で、苦しさから逃れたい一心で、金属バットを自宅に持ち帰り、六畳和室にある押し入れの布団の中に隠した。

この際も、被告人は、Cを殺して苦しみを終わらせたいという気持ちになったが、他方、まだ他に方法があるかもしれない、明日になればCが変わっているかもしれないという気持ちも抱いた。

五  1 平成八年一一月五日、被告人は、昼休み時間に妻のAと落ち合い、Cから頼まれたティーシャツを二枚購入し、午後六時ころいったん帰宅した。そして、Cから、ファミコンの本を買いに行かされたり、帰宅しては再び、借りたビデオテープを返却に行かされたりなどした後、午後一〇時ころ帰宅し、Cから求められて購入したティーシャツを見せた。Cは、気に入らないと行って怒鳴り出し、被告人の顔面を手けんで殴ったり、腹部等を足蹴にしたり、頭部を掃除機のプラスチック製の部品で殴ったりしそれが割れたほどであった。Cは、しばらく暴力を振るった後落ち着きを取り戻して被告人の作った料理を食べるなどし、同月六日午前零時ころ入浴し、八畳洋間でテレビを見るなどしていた。

被告人は、Cのためにテレビ番組を約一時間録画して六畳和室に戻り、Cから、午前七時五五分に友達に電話をするのでその前に起こすようにと言われて寝た。

2 同日午前六時ころ、被告人は、目を覚まし、しばらくの間、布団の上で、Cを起こせばまた暴力を受けるなどと思い悩んだ。Cを午前七時五五分ころに起こすには午前七時ころから何度も声を掛けなければならないと思い、午前六時半ころ、布団を出て八畳洋間の方を見ると、Cは、後頭部を被告人の方に見せて向こう向きで眠っていた。

被告人は、Cを殺すかもしれないという被告人の気持ちも知らずに無防備で眠っているCの姿を見て、後ろめたく感じるとともに、これで人生が終わったらCはみじめでかわいそうだなと思った。また、Cを殺害すれば罪を犯し罰を受けることは分かるし、それもつらいと思ったものの、今の状態と比べれば耐えやすいのではないかとも思った。そうした思いが交錯するうちに、Cに声を掛けなければならない午前七時が近付き、被告人は、苦しく追い詰められた気持ちになっていった。

そして、被告人は、もう頑張れない、このような状態から抜け出したいという思いが募り、無防備なCの姿を見て、今ならCを殺すことができるかもしれないなどと思って緊張が高まる一方で、失敗したら大変だ、Cが父親にやられたという思いを抱いて生きていくことになったらCもつらいだろうなどと考えた。そこで、被告人は、苦しませないように一瞬のうちにCを殺そうなどと思うに至った。

第二  罪となるべき事実

被告人は、平成八年一一月六日午前七時ころ、前記自宅マンション「××」二〇二号室において、六畳和室にある押し入れの布団の中から前記の金属バット一本(平成九年押第二二四号の2)を、整理ダンスの引き出し内から前記の軍手一双及びなわとび用ひも一本(同押号の1)を取り出し、軍手を両手にはめた上、八畳洋間で寝息も立てずに静かに眠っているCに目をやって、今ならやめられる、Cを起こしてこれまでと同じ日常を送ることもできるなどと思ったものの、もう苦しく耐えられないという思いから、ためらいをふっ切ってついにCを殺害することを決意し、金属バットとなわとび用ひもを持って、八畳洋間に入り、Cに対し、殺意をもって、その右後頭部付近をねらいすまして金属バットで数回殴打し、さらに、その頚部になわとび用ひもを巻き付けて締め付け、よって、そのころ、同所において、C(当時一四歳)を脳挫傷、又は脳挫傷及び絞頚による窒息の競合により死亡させて殺害したものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人は、本件犯行当時、C(以下「被害者」という。)から二年間の長期にわたり反復して暴力を受けたことにより極限にまで達したストレスの中にあって、いわゆる複雑型PTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状を呈していたものであり、心神耗弱の状態にあった、仮に複雑型PTSDの症状を呈していたと断定することが困難であるとしても、なお限定責任能力であった、と主張する。

しかし、弁護人の主張は採用することができない。その理由は、以下のとおりである。

一  被告人の捜査官に対する各供述調書及び当公判廷における供述等の関係証拠に照らして検討すれば、本件犯行に至る過程、犯行及びその前後の各状況、犯行の動機、犯行当時の被告人の生活状況等について、次のような事情を指摘することができる。

1  被告人は、あらかじめ、被害者をひと思いに殺害するための凶器として金属バット一本を、それを持つ手が滑るのを防ぐための物として軍手一双をそれぞれ購入した。さらに、被告人は、被害者を確実に殺害するために自宅にあったなわとび用ひもで被害者の頚部を絞めることも考え、これを右軍手と一緒に、自宅の六畳和室にある整理ダンスの引き出しに入れて準備した。そして、被告人は、金属バットをいったん職場に置いた後、自宅に持ち帰って六畳和室にある押し入れの布団の中に隠して準備し、その後、これらを用いて本件犯行に及んだものである。

金属バットを購入して犯行に至るまでの一連の過程において、被害者を殺害するかもしれないという思いと、反面、そのようなことはしたくない、明日になれば被害者がよくなっているかもしれないという思いとが交錯し、深い悩みや迷いとなって被告人を苦しめていたにしても、本件犯行に至る過程には一貫性が認められる。本件犯行には計画的な面があることは否定し得ない。

犯行に至る一連の過程の中で、金属バットを購入する際などに、被告人が、そのような自らの行動に半信半疑の思いを抱いたことがあったにしても、右のような悩みや迷いを抱えた被告人であってみれば、そうした心情になることは必ずしも不自然なものとはいえない。

結局、被告人は、その行動及び結果を自分自身のものとして認識、認容していたものと認められる。

2  被告人は、犯行直前においても、早朝目を覚ました後、しばらくの間、今後も被害者から暴力を受けるであろうことの苦しみを思い悩んだ上、八畳洋間で眠っている被害者の姿を目にし、その苦しみに耐えることは難しいという思いと、被害者を殺害した場合、被害者の人生はみじめなものとなるという思いや自己の罪と受ける処罰への思いなどが交錯し、かっとうしていた。そして、被告人は、被害者を起こすために声を掛けなければならない時刻が迫ったことから、ついに今なら被害者を殺害することができるかもしれないという思いが募り、金属バット等を取り出し、被害者の方を見ていったんためらったものの、これをふっ切って被害者を殺害するに至ったものである。

被告人がついに犯行を決意するに至った経過に不自然な点があるとは認められない。

また、できる限り被害者に苦しみを与えないでひと思いに殺害しようという意図の下に、あらかじめ想定した態様のとおりに実行した被告人の行動は、目的の達成に向けられた合理的で一貫したものであり、興奮し緊張した状態の中にも、被告人がそれなりの冷静さを保っていたことをうかがわせるものである。

3  被告人は、犯行後、金属バットを台所の流し場に立て掛け、軍手を流し場に置き、非常に重大なことをしてしまったという思いと脱力感から、しばらくダイニングキッチンのソファーに腰を下ろしていた。しかし、その後、被告人は、再び八畳洋間に行って被害者が確実に死亡しているのを確認すると、はみ出していた被害者の足に布団をかぶせ、また、頭から流れた血が右目にたまって乾いている様子などを見て、被害者の顔がむき出しになって見えるのは悲惨だと思い、整理ダンスからバスタオルを取り出して被害者の顔を覆った。さらに、被告人は、被害者の人生は最後はみじめだった、かわいそうだ、親として援助することができなかったなどという思いから、被害者に「ごめんね。Cちゃん。」と声を掛けて謝罪した。

次いで、被告人は、妻にどのように事態を告げたらよいのか思いをめぐらした後、妻の職場に電話をかけ、妻に強い衝撃を与えないようにまずはその友人を介して、妻に警察に出頭することなどを告げた。そして、手を洗い、返り血を浴びた衣服を着替え、最寄りの警察署に出頭して自首した。

このように被告人は、被害者や妻にいろいろ配慮しながら自ら進んで法の裁きを受けようとしたものであって、このような犯行後の被告人の行動は、被告人が本来の自分というものを失っていなかったことを示している。

4  被告人は、自首した後、捜査官に本件犯行及びその前後の各状況、犯行に至る過程等について詳細に供述しており、そこには記銘障害、意識障害等を疑わせるような事情は見受けられない。

また、被告人は、取調べの当初は、本件犯行の直前に初めて被害者の殺害を思い立ち、以前から自宅玄関の物入れ内にあった金属バットを用いて犯行に及んだ旨犯行の計画的な面を積極的に否定して事実と異なる内容の供述をしていた。被告人は、事態を十分把握した上で一定の配慮を働かせた供述態度を取っていたことが認められる。

5  被告人は、犯行後、自己の罪責を自覚する一方で被害者の暴力から逃れられたという開放感を抱いたが、その後、日々内省を重ね、被害者の家庭内暴力とこれに対する自己の対応などについて分析し、考察を加えている。そして、被告人は、当公判廷においても、総じて冷静な態度で、その点について理路整然と供述しており、現在被害者に対する謝罪の気持ちや自己の罪責についての自覚を深めるに至っている。犯行後の身柄拘束下における被告人の生活状況及び精神状態はむしろ落ち着いたものといえる。

6  被告人は、犯行当時、被害者の家庭内暴力に苦しみながらも、その解決に向けて、専門家の助言を求めるとともに自ら専門家のカウンセリングを受けるなどして真しに取り組んでいた。また、被告人は、仕事をおろそかにすることもなく勤務を続けながら、被害者をひ護して日々の生活を送っていたものである。

被告人自身の生活状況に破たんをうかがわせるような事情があったとは認められないし、また、被告人の人格の変容をうかがわせるような異常が周囲の者に気付かれた形跡も見受けられない。

7  本件犯行の動機は、主として、被告人が被害者から受ける激しい暴力の苦しみから逃れようとしたというものである。被告人は、被害者から一時離れることによって被害者の暴力の苦しみから逃れることも可能であり、そうするべきであったということができる。

しかし、被告人は、親として被害者の改善を願い、何とかして被害者を理解し意思疎通を図って改善させたいと強く思い、かつ、そうしなければならないという強い責任感を抱いていた。また、被告人は、暴力を振るいながらも被告人に依存している被害者の立場を理解するとともに、被害者の暴力を自らが受け止めることによって家庭内において妻や娘の防波堤になっているという思いもあった。さらに、被告人は、被害者の要求に従うのも一つの技術であるという専門家の助言に納得して主体的に被害者の要求に従っていた。

このような被告人の当時置かれていた立場や心情、家庭内暴力への対応についての考え方等に照らせば、被告人が、一時的とはいえ自らが被害者を放置してしまう結果になるような行動を選択することに考え及ばなかったにしても不自然とはいえない(被告人が、被害者の暴力によって隷従させられ、心理的に監禁状態にあったという見方には賛成することができない。)。

そして、被告人が被害者の暴力をやめさせようとして多大な努力を払ってきたのに被害者に改善の兆しが見られず、日常的に暴力を受ける苦しみが続く中で、忍耐が限界に達し、本件犯行に至るということは、一般通常人が同様の立場に置かれたならば同様の行動を選択することもあり得るものであるといえるのであって、十分了解することができるものである。

二  以上に述べたところからすれば、本件犯行時、被告人は、被害者の暴力に苦しみ、苦悩と疲労の中で最終的に誤った解決手段を選択してしまったものであって、その意味で正しい判断をする力がある程度低下していたことは否定することができないが、所論が指摘するような複雑型PTSDの状態を含め、少なくとも、是非善悪を弁別しこれに従って行動する能力が著しく減弱していた精神状態に被告人があったものとは認められない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中四〇〇日を右刑に算入し、押収してあるなわとび用ひも一本(平成九年押第二二四号の1)及び金属バット一本(同押号の2)は判示犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれらを没収することとする。

(量刑の理由)

一  本件は、被告人が我が子の家庭内暴力に苦しんだ挙げ句、その苦しみから逃れようとして当時一四歳になる中学三年生の長男である被害者を殺害した、という事案である。

二  1 被告人は、未だ若年の、その将来に大きな希望と可能性とを秘めた被害者の命を一瞬にして奪ったものであり、その結果はもとより重大である。

2 おそらく当時最も信頼を寄せていたであろう被告人から、思いもかけず、突然その生命を奪われた被害者の驚きと無念さは察するに余りある。

被告人に対する自らの暴力が直接の原因となったとはいえ、被害者は、被告人から殺害される前に弁明の機会を与えられることもなく一方的に殺害されたのである。

3 被告人は、あらかじめ、被害者を殺害するための凶器として金属バットを、これを持つ手が滑るのを防ぐために軍手をそれぞれ購入するなどし、金属バットはいったん職場に置いた後自宅に持ち帰って押し入れに隠して準備した上、本件犯行に及んだものである。

金属バットを購入して犯行に至るまでの一連の過程において、被害者を殺害するかもしれないという思いと、反面、そのようなことはしたくない、明日になれば被害者がよくなっているかもしれないという思いとが交錯し、被告人は、深く悩み、あるいは迷って苦しんでいたにしても、やはり本件は計画的な犯行であるという面があることを否定することができない。

4 被告人は、就寝中の被害者の頭部を金属バットで力一杯数回にわたって殴打して頭蓋骨の陥没骨折、脳挫傷等の傷害を負わせた上、なわとび用ひもで頚部を強く絞めたものである。被告人が被害者にできる限り苦しみを与えないように配慮したためであるにしても、犯行の態様はいかにも残酷である。

5 本件犯行に至る経緯及び動機は、既に認定したとおりである。被害者の暴力、理不尽な要求等は長期間に及び、かつ、時の経過に従ってその頻度も激しさも増していた。被告人は、被害者の暴力に接した当初のころからこの問題を深刻に受け止め、転職までして時間的な余裕を作った上被害者との意思の疎通を図るために多くの時間を割き、また、書籍を通して専門家らの知見に学ぶとともに直接専門家に相談をしてその助言を受け、更には自らカウンセリングを受けるなど、被害者の苦しみを自分のものとして共に生きようとし、この問題を打開するために多大な努力を払ってきたものである。そうであるのに被害者には一向に改善する兆しが見えず、暗たんたる状況にあったものであり、犯行当時ころにはほとんど一人で被害者の暴力を受け止めていた被告人の苦しみは当の本人でなければ容易に実感することができないほど大きなものであったであろう。その苦しみから逃れようとして本件犯行に至ったその経緯及び動機には同情するべきものがある。

しかし、なんといっても被害者は未だ一四歳の若年である。可塑性に富み、これまでの成育歴等に照らしてみても十分改善する可能性があったというべきである。

被告人としては、被害者の抱える問題を理解し、改善するために、往診等を含め被害者に直接専門家の診察や面接を受けさせること、暴力がエスカレートするのを抑えるために専門病院、施設等へ入院、入所させるか、規制的な力の援助を求めること、一時的に被害者から離れ経過を見守ること、あるいは、被告人自身が忍耐の限界を超えて破たんすることのないように身近な人々、信頼するに足りる人々や専門家らに一層の援助を求めることなど、なお本件の悲惨な結末を回避するために努力する余地はあったというべきである。

こうした指摘は、問題の真っただ中にあって苦しんでいた被告人の心情からすれば、いささか酷と感じられるかもしれないが、被告人が父親として真に被害者を支えるべき立場にあったことからするならば、このような必ずしも容易とはいえない努力であってもなお求められるべきものである。

そうであるならば、本件犯行の経緯及び動機を被告人に有利にしん酌することにもおのずから一定の限度があるというべきである。

このような事情に照らすと、本件の犯情は芳しくなく、被告人の刑事責任は重いといわなければならない。

三  しかし、一方、

1  前記のとおり本件犯行に至る経緯及び動機に同情するべきものがある。

2  本件家庭内暴力の原因についてみると、その可能性の一つとして、被害者が幼少時から感受性の強い子供で、学科の勉強を含め新しい課題や状況等に思いどおりに対処することができず、中学校に進学して徐々に将来への不安感が高まるなどし、そうしたこと等から情緒不安定となっていたことを指摘することができるにとどまる。

被害者が死亡した今となっては暴力の原因を知ることはできない。しかし、暴力が発現するまでの間の、被告人の家庭における家族との関係、被告人らの養育態度、仕事や生活状況等について証拠上認められるところからは、暴力の原因の一つが被告人の家庭内にあった可能性が否定されるものではないにしても、少なくとも、外部から指摘することができるような、あるいは被告人が自覚してしかるべきであるというような明確な落ち度が被告人にあったとは認め難い。

本件犯行の動機となった家庭内暴力の原因に関して被告人を責めるのは酷というべきである。

3  被告人は、犯行後自首し、勾留中、弁護人らを始めとする多くの人々の理解にも支えられて日々内省を重ね、被害者に対する謝罪の気持ちと自己の罪責についての自覚を深めている。

4  被告人の妻と娘は、被害者及び被告人の心情を深く思いやり、今後被告人共々互いに支え合って生活していく気持ちでいる。

5  被告人は、これまで健全な社会人として真面目な生活を送ってきたものであり、前科はもちろん、前歴もない。

このような被告人のために酌むべき事情も認められる。

以上の諸事情を併せ検討し、被告人に対し主文の刑を科するのが相当であると判断した。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 阿部文洋 裁判官 小川正持 裁判官 村川浩史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例